

サステナビリティを追求する上で、将来世代に与える影響だけでなく、行動そのものの本質を検証することは極めて重要です。
近年、取り組みそのものと、一部の人たちの行動に対する懸念が持ち上がっています。
"サステナビリティ"が世界的に認知され、トレンディなトピックとなったことは間違いありません。
各分野の専門家、メディアによる報道、多額の財政投資、多くの会議など、サステナビリティ分野での成功は、世界にとって素晴らしいニュースのように見えます。
しかし、問題もあります。
このような成功は、サステナビリティを自己完結的な"世界"、あるいは、排他的な人たちで構成される"閉じた社会"に仕立てたのです。
たとえば、ヨーロッパでは、「トップ100」と呼ばれる企業のサステナビリティ・リーダーの多くが、個人レベルで親交があり、インサイダーグループを形成しています。つまり、今日のサステナビリティには、インサイダーとアウトサイダーが存在するのです。
サステナビリティに関して、意見を聞くため招待される人もいれば、除外される人もいます。しかし、除外された人の意見は「視野の価値が低い」を意味するのでしょうか?
同様に、「サステナビリティ」という語彙を持っている人と持っていない人がいます。
「インパクト」「レジリエンス」「チェンジ」「インクルージョン」といった言葉は、多くの人にとってほとんど意味を持ちません。
しかし、だからといって、彼らの洞察の価値は低い、と見なされるのでしょうか?私はそうは思いません。
サステナビリティが排他的になりつつあることは、懸念すべき事態です。
言うに及ばず、一部の特権階級に限定されるものではなく、さまざまな方法で表される共通の関心事です。つまり、アウトサイダーは本来いないはずなのです。
誰もが依存しているもので、みなの声が考慮され、尊重されるべきです。
たとえば、19世紀パリの貴族社会にある"サロン"のような「サステナビリティ会議」を想像してみましょう。こうした会合には、グローバリゼーションの勝者である特定の階層が集まり、互いの行動に拍手を送り合います。
ここではまさに、意思決定者("サステナビリティの専門家")とそれ以外の間に存在する社会的、文化的、経済的、価値観のギャップを感じることでしょう。つまり、戦略から恩恵を受けるべき人たちが会議に参加せず、その結果、政策決定者の価値観や意見を満足させるだけで終わってしまうのです。
私たちが対峙している世界には、デジタルノマドや菜食主義者のコミュニティだけでなく、地域社会やその価値観に根ざした何十億もの人々がいることを忘れてはなりません。
たとえ考えや行動が異なるものだったとしても、サステナビリティへの取り組みには、誰もが参加すべきではないでしょうか?
要するに、全員が自らの動機を問い直すべきなのです。
純粋に世界を救おうとしているのか。それとも、単に自分たちの世界、考え、ビジョン、価値観を守ろうとしているだけなのか。
この2つには、大きな違いがあります。
私たちが考える"サステナビリティ"が、多様性を奪い、均質な存在を促すのであれば、私はこの世界と人類が持続可能であってほしいとは思いません。
私たちは、サステナビリティがあらゆる視点を包み、尊重すべきものであることを忘れてはなりません。
門戸を広く開き、多様な声に耳を傾けることで、より持続可能な未来を切り開くことができるのです。